スポーツジムで始めてコアマッスルを鍛える運動をした翌日。
体中、特に上半身の筋肉痛がひどかった。ちょっとでも体を捻ったり腕を動かすと痛い。
妻に言うと、「それはいままで眠っていた筋肉が刺激されて目覚めた証拠だ。喜ばしいことだ。めでたい。筋肉痛おめでとうだ。」
因みに妻はピラテスなどコアマッスルにかけては僕より1年以上先輩だ。
ということで、新しいパワーボキャブラリー
「筋肉痛、おめでとう」
これからは、筋肉痛はつらいことではない。新しい意味づけができあがったから。
2008年10月29日
2008年10月23日
2008年10月15日
Bravo!な天罰下る。Reframe, please.
2008年10月12日
2008年09月20日
判らないって言っちゃだめ
久々のアップです。
さてさて、今日は娘と二人でお留守番の休日です。
最近突然難しくなった算数の宿題を見てあげることになった。
問題集を順調に解く娘であったが、ある問題で躓いたようだ。
「パパ、教えて」
問題を読むと、かつて娘が解いたことのあるのと同種の問題だ。
「曜子(仮名)は答えは何だと思う?」
「判らない」
明らかに思考停止状態。父親から正解だけを引き出そうとしている。
「判らないって言っちゃダメだ。もし判るとしたら、答えは何だろうね?」
「え〜? う〜ん、○○かな?」
惜しい!
いくつか考えるヒントを出す。
「あぁ、そうかぁ」娘の頭が高速で回転を始めているのが判る。
「もうちょっと考えてごらん」
「えっと・・・・・・、△△?」
正解!
まぁ、すごくPrimitiveだけど、NLP話法の成果でした。
さてさて、今日は娘と二人でお留守番の休日です。
最近突然難しくなった算数の宿題を見てあげることになった。
問題集を順調に解く娘であったが、ある問題で躓いたようだ。
「パパ、教えて」
問題を読むと、かつて娘が解いたことのあるのと同種の問題だ。
「曜子(仮名)は答えは何だと思う?」
「判らない」
明らかに思考停止状態。父親から正解だけを引き出そうとしている。
「判らないって言っちゃダメだ。もし判るとしたら、答えは何だろうね?」
「え〜? う〜ん、○○かな?」
惜しい!
いくつか考えるヒントを出す。
「あぁ、そうかぁ」娘の頭が高速で回転を始めているのが判る。
「もうちょっと考えてごらん」
「えっと・・・・・・、△△?」
正解!
まぁ、すごくPrimitiveだけど、NLP話法の成果でした。
2008年09月03日
全ては縁で繋がっているのか(最終話)
一年前
崩壊の序曲の始まり。
退職またはUS本社に帰任した人→
社長、人事部長、経理部長、製品開発部長、営業部長・副部長、その他10指にあまる数の社員たち。
半年前
M&A完了。
我が社の副社長や取締役はS社の子会社Xの部長になった。課長はX社の主任になった。
それと同時に配布された採用通知書!には現在の給与の保証は1年間でそれ以降は大幅に下がる可能性がある旨条項に含まれていた。
もはやS社に誓う忠誠心など、誰の心にも残されていない。
退職者はますます加速して行った。
そんなある日、再び香港のAnitaから電話があった。今度こそいい話だという。僕は真剣に話を聞いた。ドイツの会社の日本法人のポジションだ。
仕事の内容や条件は驚くほど僕の理想のイメージに合致していた。
話はとんとん拍子に進み、オファーが出た。
2008年9月
今、ここで思うのは、第一話にも書いたように、「万事塞翁が馬」だということ。
もし、ドイツ行きという逆境がなければ、ドイツファンにはならなかったし、今回の話は食指も動かなかっただろう。相手企業も僕に興味を示さなかったかもしれない。
もし、海外から帰任後の不遇がなければ、僕は転職人生を始めなかっただろうし、今回の話もなかったはずだ。
もし、Y社を半年で辞めるという苦い決断がなければ、僕は件のSNSに参加することもなく、この話が僕に来ることもなかっただろう。
もし、今の会社が売られるという逆境がなければ、会社を追い出されるという状況になければ、この話は、はなから聞く耳をもてなかっただろう。
Steve JobsがStanford大学MBAの卒業式でスピーチしたように、僕たちは将来の出来事の点と点を線で結ぶことはできない。出来るのは過去の出来事を線で結ぶことだけだ。
でも、点と点は、大切にしていればきっと将来、形はどうあれ繋がっていくんだ。
だから、大事にしなければならないのは、
今自分に与えられた人生を精一杯生き切ること。
自分の直感を大事にして、他人の人生を生きないこと。
縁を決して疎かにしないこと。
逆境は絶対乗り越える価値があると信じること。
なんだろうな、と強く思うのだ。
------------------------------------------------
図らずも長いシリーズになってしまい、冗長になってしまったことをお詫びします。
最後までお付き合いくださった読者の皆さんに感謝します。
ありがとうございました。
次回からは、またもうちょっと軽くBravo!な日常を綴りたいと思います。
崩壊の序曲の始まり。
退職またはUS本社に帰任した人→
社長、人事部長、経理部長、製品開発部長、営業部長・副部長、その他10指にあまる数の社員たち。
半年前
M&A完了。
我が社の副社長や取締役はS社の子会社Xの部長になった。課長はX社の主任になった。
それと同時に配布された採用通知書!には現在の給与の保証は1年間でそれ以降は大幅に下がる可能性がある旨条項に含まれていた。
もはやS社に誓う忠誠心など、誰の心にも残されていない。
退職者はますます加速して行った。
そんなある日、再び香港のAnitaから電話があった。今度こそいい話だという。僕は真剣に話を聞いた。ドイツの会社の日本法人のポジションだ。
仕事の内容や条件は驚くほど僕の理想のイメージに合致していた。
話はとんとん拍子に進み、オファーが出た。
2008年9月
今、ここで思うのは、第一話にも書いたように、「万事塞翁が馬」だということ。
もし、ドイツ行きという逆境がなければ、ドイツファンにはならなかったし、今回の話は食指も動かなかっただろう。相手企業も僕に興味を示さなかったかもしれない。
もし、海外から帰任後の不遇がなければ、僕は転職人生を始めなかっただろうし、今回の話もなかったはずだ。
もし、Y社を半年で辞めるという苦い決断がなければ、僕は件のSNSに参加することもなく、この話が僕に来ることもなかっただろう。
もし、今の会社が売られるという逆境がなければ、会社を追い出されるという状況になければ、この話は、はなから聞く耳をもてなかっただろう。
Steve JobsがStanford大学MBAの卒業式でスピーチしたように、僕たちは将来の出来事の点と点を線で結ぶことはできない。出来るのは過去の出来事を線で結ぶことだけだ。
でも、点と点は、大切にしていればきっと将来、形はどうあれ繋がっていくんだ。
だから、大事にしなければならないのは、
今自分に与えられた人生を精一杯生き切ること。
自分の直感を大事にして、他人の人生を生きないこと。
縁を決して疎かにしないこと。
逆境は絶対乗り越える価値があると信じること。
なんだろうな、と強く思うのだ。
------------------------------------------------
図らずも長いシリーズになってしまい、冗長になってしまったことをお詫びします。
最後までお付き合いくださった読者の皆さんに感謝します。
ありがとうございました。
次回からは、またもうちょっと軽くBravo!な日常を綴りたいと思います。
2008年09月02日
全ては縁で繋がっているのか(第4話)
9年前
4年のドイツと3年の米国滞在を終えて帰国した僕は、逆浦島状態に陥っていた。
つまり、海外に渡った7年前と帰国時点で、まるで時を経ていないかのように、会社の中はほとんど何も変わっていなかったのだ。
思えば日本はバブル崩壊後、失われた10年といわれる時代に突入し、全てが内向きで保守的な雰囲気が世間と会社を覆っていた。
一方、僕が滞在していた米国は当時クリントン政権にあり、経済は隆盛を誇り会社の事業も好調、変化が激しく、毎日がエキサイティングだった。
その日米のギャップに戸惑うなかで、漠然とキャリアシフトを考えるようになった。
悩んだ末出た結論は、15年以上勤めた会社を辞めること。そして転職というリスクをとるからには、辞めなかった場合を上回るキャリア上の成功をおさめること、というものだった。
結局その4年後、僕は本当に会社を辞めた。
7年前
帰国してから2年経ち、丁度ドイツでの生活がそろそろ懐かしくなってきた頃、僕は米国、欧州へ出張した。
そこで改めて痛感したのは、欧州人のワークライフバランス重視の素晴らしさである。
実はアメリカ人は日本人よりも働き者が多い。努力は報われるというアメリカンドリームを信じているからかもしれない。そして、やはり努力は多くの場合正当に評価され、報われるのだ。だからその分ワーカホリックも多い。
出張を機に、転職したら始めのうちは米系で精一杯働き、後半は欧州系、と漠然と考えるようになった。
そして、こういった望みは強く願い続ければ実現するものだ、と後々実感することになるのだが、成功哲学を全く知らなかった当時の僕はそれを意識することは全くなかった。
(続く)
4年のドイツと3年の米国滞在を終えて帰国した僕は、逆浦島状態に陥っていた。
つまり、海外に渡った7年前と帰国時点で、まるで時を経ていないかのように、会社の中はほとんど何も変わっていなかったのだ。
思えば日本はバブル崩壊後、失われた10年といわれる時代に突入し、全てが内向きで保守的な雰囲気が世間と会社を覆っていた。
一方、僕が滞在していた米国は当時クリントン政権にあり、経済は隆盛を誇り会社の事業も好調、変化が激しく、毎日がエキサイティングだった。
その日米のギャップに戸惑うなかで、漠然とキャリアシフトを考えるようになった。
悩んだ末出た結論は、15年以上勤めた会社を辞めること。そして転職というリスクをとるからには、辞めなかった場合を上回るキャリア上の成功をおさめること、というものだった。
結局その4年後、僕は本当に会社を辞めた。
7年前
帰国してから2年経ち、丁度ドイツでの生活がそろそろ懐かしくなってきた頃、僕は米国、欧州へ出張した。
そこで改めて痛感したのは、欧州人のワークライフバランス重視の素晴らしさである。
実はアメリカ人は日本人よりも働き者が多い。努力は報われるというアメリカンドリームを信じているからかもしれない。そして、やはり努力は多くの場合正当に評価され、報われるのだ。だからその分ワーカホリックも多い。
出張を機に、転職したら始めのうちは米系で精一杯働き、後半は欧州系、と漠然と考えるようになった。
そして、こういった望みは強く願い続ければ実現するものだ、と後々実感することになるのだが、成功哲学を全く知らなかった当時の僕はそれを意識することは全くなかった。
(続く)
2008年09月01日
全ては縁で繋がっているのか(第3話)
2年前
ある日、件のSNSを経由して香港の全く面識のない女性からメッセージが届いた。
「すばらしいCareer Opportunityがあるので、一度話がしたい。ついては電話番号を教えてくれ。」という。
怪しみながら電話番号を返信すると、すぐに電話がかかってきた。
彼女はAnitaと名乗る香港の人材紹介会社の人物で、クライアントの某多国籍企業が日本支社での人材を探しているので応募しないかという。
いろいろ話をすると、「ちょっとクライアントが探している人物像とあなたは違うようだ。」と言い放って電話を切ってしまった。
そのときは仕事に満足していたし、ありがちな話なので、それきりすっかりそのことは忘れ、仕事に忙殺される毎日に戻っていった。
1年半前
突然アメリカの親会社が、我が社の株を日本の会社に100%譲渡するという発表をした。
その日本の会社、仮にS社としよう、はその数年前にも英国の通信キャリアの日本法人を買収したのだが、買収された会社の管理職層が散々な末路を辿ったことは業界では有名だったので、我が社でもこのM&Aの発表は相当な衝撃とともに受け入れられた。
我が社はとても利益率が高く毎年40%の成長を達成していたので、まさか親会社が手放すまいと思っていたのだが、IT業界は本当に一寸先は闇である。
完全にS社にマージされるまでは1年ちょっとの時間的猶予があった。
さっさと次の会社を探す者、S社の経営陣に取り入ろうと政治に走る者、泣き落としで親会社に引き取られていく者、様子見を決め込む者、様々な人間模様を眺めるのは、それはそれで面白いものだった。
僕はといえば、我が社の値踏みをS社がするための情報窓口に任命されたため、「とりあえずM&Aが終了するまでは辞めない」というスタンスを取る事にした。
(続く)
ある日、件のSNSを経由して香港の全く面識のない女性からメッセージが届いた。
「すばらしいCareer Opportunityがあるので、一度話がしたい。ついては電話番号を教えてくれ。」という。
怪しみながら電話番号を返信すると、すぐに電話がかかってきた。
彼女はAnitaと名乗る香港の人材紹介会社の人物で、クライアントの某多国籍企業が日本支社での人材を探しているので応募しないかという。
いろいろ話をすると、「ちょっとクライアントが探している人物像とあなたは違うようだ。」と言い放って電話を切ってしまった。
そのときは仕事に満足していたし、ありがちな話なので、それきりすっかりそのことは忘れ、仕事に忙殺される毎日に戻っていった。
1年半前
突然アメリカの親会社が、我が社の株を日本の会社に100%譲渡するという発表をした。
その日本の会社、仮にS社としよう、はその数年前にも英国の通信キャリアの日本法人を買収したのだが、買収された会社の管理職層が散々な末路を辿ったことは業界では有名だったので、我が社でもこのM&Aの発表は相当な衝撃とともに受け入れられた。
我が社はとても利益率が高く毎年40%の成長を達成していたので、まさか親会社が手放すまいと思っていたのだが、IT業界は本当に一寸先は闇である。
完全にS社にマージされるまでは1年ちょっとの時間的猶予があった。
さっさと次の会社を探す者、S社の経営陣に取り入ろうと政治に走る者、泣き落としで親会社に引き取られていく者、様子見を決め込む者、様々な人間模様を眺めるのは、それはそれで面白いものだった。
僕はといえば、我が社の値踏みをS社がするための情報窓口に任命されたため、「とりあえずM&Aが終了するまでは辞めない」というスタンスを取る事にした。
(続く)
2008年08月25日
全ては縁で繋がっているのか(第2話)
15年前
最初の会社での出来事。
まだインターネットもメールも職場になかった時代。
その会社は早くから海外に事業展開していて、僕の職場も海外のいろんな国に社員を派遣していた。
そして、海外赴任者はローテーションになっていたので、「次はC国のXさんが帰国する。順番からいって次に派遣されるのはYさんだろう」というような会話がよく聞こえてくる職場だった。
僕は、英国に赴任しているある先輩と、交代要員として赴任するように内々に約束を交わしており、上司も暗にそれを認めていた。
問題は、いつ先輩に帰国命令が出るか、だけだった。
そんな或るとき、僕は急に部長と課長から呼び出しを受た。
「何かまずいことしたっけ?」とびくびくしながら会議室に入ったときのことは今でもよく覚えている。
課長はこう言った。「実は、ドイツに行くことになっていたB君が健康診断で赴任不可ということになった。肝炎だ。すぐ入院することになる。で、代わりにドイツに行くことになるのは君だ。」
大学での第二外国語はフランス語で、ドイツには縁もゆかりも興味もない。
ロンドンに行けるだろう、と語っていた婚約者の、留学先のロンドンからの手紙には、ショックが滲み出ていた。大戦から50年たった今でもドイツ人を毛嫌いしているイギリス人は多い。
ホームステイ先のホストからさんざん聞かされている彼女もまた、ドイツに悪印象も持っていた。
半年後、逆境の中、僕は冬のドイツ、平均気温が氷点下の日も多いシュツットガルトに赴いた。
はじめての海外、英語がほとんど通じない町、日本と全く違う価値観とルール。よそ者を特別視しない(甘えが許されない)人々。
最初の2年は苦労とストレスと忍耐の連続。
しかし住めば都、石の上にも3年とはよく言ったもので、僕たち夫婦は次第にドイツ人、ドイツ文化、ドイツ製品、ドイツ料理、ドイツの町並み、価値観に魅了され、最後には大ファンになっていた。
ドイツは奥深く、その本当の良さは観光旅行などの短期滞在では分らないのだ。
そんな全く予期していなかった、不本意ながら赴任したドイツ滞在経験が、これもまた今回の転職を決定付けた一つの要素になっているのだ。
(続く)
最初の会社での出来事。
まだインターネットもメールも職場になかった時代。
その会社は早くから海外に事業展開していて、僕の職場も海外のいろんな国に社員を派遣していた。
そして、海外赴任者はローテーションになっていたので、「次はC国のXさんが帰国する。順番からいって次に派遣されるのはYさんだろう」というような会話がよく聞こえてくる職場だった。
僕は、英国に赴任しているある先輩と、交代要員として赴任するように内々に約束を交わしており、上司も暗にそれを認めていた。
問題は、いつ先輩に帰国命令が出るか、だけだった。
そんな或るとき、僕は急に部長と課長から呼び出しを受た。
「何かまずいことしたっけ?」とびくびくしながら会議室に入ったときのことは今でもよく覚えている。
課長はこう言った。「実は、ドイツに行くことになっていたB君が健康診断で赴任不可ということになった。肝炎だ。すぐ入院することになる。で、代わりにドイツに行くことになるのは君だ。」
大学での第二外国語はフランス語で、ドイツには縁もゆかりも興味もない。
ロンドンに行けるだろう、と語っていた婚約者の、留学先のロンドンからの手紙には、ショックが滲み出ていた。大戦から50年たった今でもドイツ人を毛嫌いしているイギリス人は多い。
ホームステイ先のホストからさんざん聞かされている彼女もまた、ドイツに悪印象も持っていた。
半年後、逆境の中、僕は冬のドイツ、平均気温が氷点下の日も多いシュツットガルトに赴いた。
はじめての海外、英語がほとんど通じない町、日本と全く違う価値観とルール。よそ者を特別視しない(甘えが許されない)人々。
最初の2年は苦労とストレスと忍耐の連続。
しかし住めば都、石の上にも3年とはよく言ったもので、僕たち夫婦は次第にドイツ人、ドイツ文化、ドイツ製品、ドイツ料理、ドイツの町並み、価値観に魅了され、最後には大ファンになっていた。
ドイツは奥深く、その本当の良さは観光旅行などの短期滞在では分らないのだ。
そんな全く予期していなかった、不本意ながら赴任したドイツ滞在経験が、これもまた今回の転職を決定付けた一つの要素になっているのだ。
(続く)
2008年08月22日
全ては縁で繋がっているのか(第1話)
縁あって再来月から会社を移ることにしたのだが、今度の新しい会社の決まり方を反芻してみると、なんだかまるであらかじめ仕組まれていたかのような話の進み具合だった。
しかも自分の20余年のキャリアのなかで、なかったことにしたいと思うようなダメダメな時期が、実は今回の転職の種がまかれていた時期になっていることに気づいた。
人間、何がどう転ぶか判らない、まさに人生は「塞翁が馬」だ。
5年前
初めての転職。仮にA社としよう。僕はA社財務部門のSenior Managerとして入社した。
入社したものの一ヵ月後には、ここは長くいるところじゃないと結論が出た。
そして半年後には退職していた。
だが、そこで知り合った仲間は、そういう厳しい環境でも生き抜いているツワモノ揃いだったので、尊敬できたし見習ってもいた。
退職するときは安堵感半分、敗北感半分で、敗北感はその生き抜いている仲間たちに対して持った感情だった。
結局、その仲間たちも定年までいるわけでもなく、順番に退職、A社財務OB会というゆるいつながりが今でも続いている。
3年前
そのOB会の集まりに誘われて赤坂に飲みに行ったときのこと。
仲間の一人が、面白いやつがいるから誘ってきた、ということで、ある変わったアメリカ人に出会う。
名刺交換し、そのときはそのまま別れたのだが、翌日その男からメールが来た。
それは、あるSNSへの招待状だった。そのSNSは主にビジネス上のネットワークを形成するためのもので、アメリカを中心に急拡大しているものだった。
早速入会した僕は、そこに当時働いていた会社のアメリカ本社のメンバーが多数居ることに気づく。それを足がかりに僕のネットワークもアメリカ、アジア、欧州に広がっていった。(続く)
しかも自分の20余年のキャリアのなかで、なかったことにしたいと思うようなダメダメな時期が、実は今回の転職の種がまかれていた時期になっていることに気づいた。
人間、何がどう転ぶか判らない、まさに人生は「塞翁が馬」だ。
5年前
初めての転職。仮にA社としよう。僕はA社財務部門のSenior Managerとして入社した。
入社したものの一ヵ月後には、ここは長くいるところじゃないと結論が出た。
そして半年後には退職していた。
だが、そこで知り合った仲間は、そういう厳しい環境でも生き抜いているツワモノ揃いだったので、尊敬できたし見習ってもいた。
退職するときは安堵感半分、敗北感半分で、敗北感はその生き抜いている仲間たちに対して持った感情だった。
結局、その仲間たちも定年までいるわけでもなく、順番に退職、A社財務OB会というゆるいつながりが今でも続いている。
3年前
そのOB会の集まりに誘われて赤坂に飲みに行ったときのこと。
仲間の一人が、面白いやつがいるから誘ってきた、ということで、ある変わったアメリカ人に出会う。
名刺交換し、そのときはそのまま別れたのだが、翌日その男からメールが来た。
それは、あるSNSへの招待状だった。そのSNSは主にビジネス上のネットワークを形成するためのもので、アメリカを中心に急拡大しているものだった。
早速入会した僕は、そこに当時働いていた会社のアメリカ本社のメンバーが多数居ることに気づく。それを足がかりに僕のネットワークもアメリカ、アジア、欧州に広がっていった。(続く)


